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東向きの兵士 

『竹取物語』では、八月十五夜の子の刻、つまり深夜の0時前後に月からの迎えがやってきます。子の刻というのは、おおざっぱに言いますと午前0時をはさむ2時間くらいのことです。今の時刻の感覚から言うと十五日の夜から十六日にかけて、ということですね。ただ、昔の人は子の刻で日付が変わるという意識はなかったらしく、仮に今でいう0時を過ぎていても相変わらず八月十五日なのです。
その時刻であれば、月はほぼ南中していて、高い位置にあります。そのときに、にわかに明るさが増して、地上にいる人の毛穴までが見えるくらいだったと言います。強烈な光でしょうね。
そして天人がやってきて、かぐや姫は帝のために

    不死の薬

と手紙を置いて去っていきます。月が昇ってから天人が下りてくるまでは、理屈から言うと6時間くらい経っていることになります。相当長い時間待たされているわけですね。
では、映画『かぐや姫の物語』では、ここをどのように描いているのでしょうか。翁は天人から姫を守るために兵士をこの日のために組んだやぐらや屋根に上らせるのです。
この場面で、画面が俯瞰図になるのですが、兵士たちは一様に東を向いています。というより、屋敷の東側にやぐらが組まれているのです。
すると月が東の空に昇り、まださほど高い位置ではないところで強烈な光が射してきます。雲が下りてきて、月の王を中心に音楽を奏でる天人たちが姿を見せます。またまた理屈を言うなら、おおむね7時頃、酉から戌の刻あたりに思われます。
やがて雲は屋敷の池の上あたりで止まります。飛天が屋敷の格子を次々に開けて、まず寝殿に入り、そのあと渡殿を経て西の対に向かいます。おそらく

    塗籠の中

に隠れていたのであろう媼とかぐや姫はすぐに見つかってしまいます。
我を忘れたかのように、かぐや姫は西中門廊を通って釣殿に向かい、東を向いて雲の上に至ります。
どうでもいいことなのかもしれませんが、映画では、なぜ原作のような子の刻ではなくまだ早い時刻にしたのでしょうか。月が昇ってから深夜までの長い時間にして愁嘆場を描くこともできたかもしれません。どのように兵士を配置したのか、かぐや姫はどんな気持ちで塗籠に入ったのか、媼がかぐや姫に付き添い、翁は兵士の中に入るに際しての心理はどうだったのか、そんなことを描く可能性もないとは言えないように思うのです。しかしここはあっという間に天人が登場します。
月がまだ大きく見える頃だから、という理由もあるのかもしれません。絵として、高い南の空から降りるのではなく、低い東の空から滑るように出てくる形にする方がよかったのかもしれません。このあたりは

    絵心のない私

にはまるで分りません。
私はもうひとつ、この月を眺める人たちの様子を描きたかったから、ということもあるのではないかと感じました。
帝は清涼殿の東の簀子に出て倚子(いし)に腰かけ、四人の求婚者たち(石作皇子、車持皇子、阿部右大臣、大伴大納言。石上中納言は亡くなっている)とともに空を見上げています。この場面でも、東から射す月の光を受けた呉竹や柱などの影が正確に描かれています。教育係だった相模と名付け親の斎部秋田は現代風にススキを瓶に入れて月見団子を供え、月見酒を味わっています。山の子どもたちはその明るさのために駆け回り、捨丸は子どもを背負った妻と共に家の屋根を葺いています。
深夜であればいくら何でも子どもたちは眠っているでしょう。月見酒ももう終えている時刻かもしれません。そもそも、冠を着けて羽衣を手に取ったかぐや姫が我に返ったのは女童や子どもたちがあの「まわれ、まわれ、まわれよ」のわらべ歌を歌ったのを聞いたあとでした。子どもたちが行き来する時刻なのです。
実際、高畑監督にどういう意図があったのかは存じませんが、結果的には、深夜に設定することはいろいろな意味で無理があったのではないか、と、余計な詮索をしています。

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