おだてられて
- 日々牛歩
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私は小さい頃から「こわがり」で、自分は何もできるはずがないと思い込むところがありました。たとえば自転車に乗るにしても、補助輪付きの自転車に小学校1年生まで乗っていた記憶があります。補助輪を外すと怖いものですから、自分は生涯補助輪なしの自転車になんて乗れない、と思ってしまうのです。
ところが親や兄が練習させようとして補助輪を外してしまいます。できるわけがない、無理、無理と思って足を地面に半ばつけながら、泣きっ面でやめさせてくれるのを待ちます。ところが何かのはずみで足を地面から離してすっと走り出すことがあります。そんなときに褒められると、突然できるようになりました。何とかもおだてりゃ木に登る、というわけです。
それでも、また別のことになると「自分にはできない」「無理、無理」の繰り返しなのです。
勉強に関しては、大学院の学生のこと、およそ自分の能力に自信がなくなって、「友がみな我よりえらく見ゆる日」が続いていたのです。そんなある日に恩師が「君は
解釈力がある
から、それを生かせばいい」と何かのはずみでおっしゃったのです。解釈力? そんなもの、ないですよ、というのが私の本心でした。でも恩師はそうおっしゃるのです。以後、私は文学論を振り回すような無謀なことはやめて、こつこつと解釈することに生きる道を求めました。これも、おだてられて木に登った一例だと思います。
とんとご無沙汰だなと思ったらにわかに頻繁にコメントをくれるようになる方がときどきいらっしゃいます。とてもありがたいことです。
最近コメント量が激増しているのは「押しego」さんだと思います。彼女は私の教え子だと自称されますが、実際は私が彼女の大学に非常勤講師として行ってほんの少し授業で出会っただけの関係で、「恩師と教え子」のようなものではないのです。ただ、何となく波長が合ったのか、授業のあと雑談をしたりするようになったのです。私もまだ独り者で若かったので、女子大生さんと話ができるのはうれしくて、授業が終わってからも何となくもぞもぞとその教室に残って、誰か話をしてくれないかな、と思っていたのです。すると何人かの人が話をしてくれて、短くも楽しい時間になりました。ただ、当時3年生だった彼女と教室で会うのは一年だけで、次の年は授業で会うことはなくなり、さらにその翌年に私はあっけなく
クビ
になりましたので(笑)、彼女が卒業すると同時に私もその大学との縁は切れてしまいました。授業で会わなくなったと書きましたが、私は授業のある日は、午後になるとその大学の図書館で勉強させてもらっており、彼女もよく図書館にいましたので、少しは話すこともできたのでした。
その彼女が最近ここで歯の浮くような(笑)お世辞コメントを書いてくれたことがあり、うれしいような居心地の悪いような気持ちになりました。
実は彼女とはちょこちょこメールのやりとりもしていまして、そこでもかつて週に一度会った時のことをうまくほめてくれるのです。人間は弱くて愚かなものですから、おだてられるとそれがお世辞だとわかっていてもうれしいものです。なんていうと、彼女は「お世辞ではない」とまたまた「お世辞」を言ってくれるかもしれません。
でも、このたびはおだてられても何かができるようになったというわけではありません。それでも、教員として生きていきたいと思った学生のころの思いがいくらかでも実現できたのではないかという満足感を与えてもらったことが何よりも心温まるものとして受け止められたのです。
ときどき毒舌も辞さない(彼女には「それはあんたでしょ」といわれそうですが)人ですが、押しegoさん、いつもありがとうございます。
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- [2023/09/16 00:00]
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コメント
‥‥。
・・逃げよ。
自信作なり。
まごころを 虚礼とたがふ愚かさに
知らぬことこそ 恥とぞ思ふ
※潜らないと言葉が聞き取れない、
誰かさんへの献上ではございません。
あ、センセ?
わたくしからお世辞を言わせる場合。
上司ですら、
こいつは、交換条件が無ければ言えと言っても、言わない、矢面に立たない。
と、嘆きつつ、ご理解いただいておりました。
一円の儲けにもならず、
タダで虚礼、お世辞なんて。
そんな生産性のない究極の無駄は。
わたくしの辞書にはございません、オホホのほ。
※逃げたのに、なぜ?
一首思いついてしまったのだろう。。デビルが刷り込まれている‥。
解釈とは?
??センセ。
センセの恩師の方が、仰った解釈力とは。
分かりやすく、ひも解くこと。
ということでしょうか?
分析する、つまびらかにする、という能力があることを。
解釈力、という言葉で、選ばれたのでしょうか?
解釈と言えば、寺山修司の言葉で。
解釈とは、頭で考え、心に刻むことである。by寺山修司
ああ、・・そんなこと。
夢のまた夢、永遠の夢だ・
その時は頭に響いても、
その時限りで、2時間もしたら。
読んだ本のタイトルすら、忘れてます。
寺山さん、ごめんなさい。わたしには無理みたいです・・
センセは、解釈を、どう、受け止めて
おられますか?
🎵押しegoさん
古典文学なので、解釈力といったらごく一般的な意味の、文章の意味を正しく理解すること、ということです。研究の基本で、それ以上のことは私には無理だと思われたのでしょう(笑)。ただ、本文解釈ができないのに理屈ばかり言う人は多いので、それよりはマシだ(笑)ということでしょう。
その先生は、ゼミでもきわめて厳密な解釈を重んじられ、私は比較的それができると思ってくださったのでしょう。その結果、押しegoさんにも謹呈した注釈書を書かせてくださいました。
かぐや様の存在意義すら、解釈できていない・・
@厳密な解釈を重んじられ・・
うわぁ、わたしの最も出来ない分野だ・・。羨ましい限りでございます。
いまだに、木を見て森を見ず。どころか。
本来の目的地に辿り着いているのに。
入り口で見かけた樹木が何だったのか?
迷子になったまま、すっかり忘れて迷走しかできない身としては。
※これ、本当に情けないのですが。
小説や物語の入り口を忘れてしまい。
例えば、竹取ですら、入り込むと。
主人公がなぜ?月に帰るのか?すら、忘れてしまうのであります。
ああ、かぐや様、ごめんなさい。
厳粛な解釈どころか。
この人、なんで?
こんなに言いたい放題、国の運営を司る人にまで。
大層な、わがままが言える立場なんだろう?と、うんざりしてしまい。
ああ、そうそう、竹から生まれた不思議な美女だったからか。
と、不思議な生誕を忘れてしまうのでありました。
解釈力さえあれば、
あの人の理不尽な要求に翻弄されている愚かさに、
憐れみという心が宿るのだろう‥。
美女のわがままな私生活にしか、
見えなくなる愚かさを、お許しくださいませ。
解釈力、それは憧れの到着地。
何故?あの、しんどい家族に育まれ、こんな頓珍漢にしか、なれなかったのだろう。。。
※知らんがな・・ご尤もです。
♬押しEgoさん
大学院のときは一語ずつ、というよりは一文字ずつ解釈するという感じでした。私が書いた注釈では一つの文字が読めないことで数年停滞したこともありました。でも何とかしよう、と思えるのは学生時代の経験が生きているのだと思います。
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