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藤原道長の病気(2) 

正暦五年(994)は一年にわたってひどい疫病が蔓延した年でした。時に道長二十九歳。ばたばたと人が倒れ、「京の都の路頭には病者があふれた」と記録にあります。以前書いたかもしれませんが、デマも飛んで、「三条油小路の井戸の水を飲めば病気を免れる」と言い出した人物がいて、「京の人々はこぞって水を汲みに来た」という記録もあります。こういう噂はどういうわけか千里を走るように広がるものです。昔も今も変わりませんね。
疫病となると、身分の上下は関係なく誰でも罹患する可能性があります。周辺に感染者が出たのを見た道長も心穏やかではなかったでしょう。
政府がすることと言ったら大赦、祓、神社への奉幣、内裏での読経、法会の開催、税の免除、高齢者への食糧配布などで、医学的なことに関してはほぼ記録にありません。もちろん当時の医師(くすし)たちも手を拱いていたわけではなく、中国の医書にのっとった治療は施したはずですが、何しろ悪疫ですからどこまで効果があったものやら。
翌年になってようやく収まると、政府が次にしたことは

    改元

でした。議論のあげく、「長徳」という元号になるのですが、この元号についてもいろいろ意見がありました。「長徳」は「長毒」に通ずるとか、「徳」の字を持つ元号はこれまでに「天徳」しかないが、天徳元年には不吉なことが起こっているとか。
幸い道長はこの疫病には罹らなかったのですが、その元号が改まった長徳元年には道長の兄たちが立て続けに亡くなるという悲劇に見舞われました。長兄の道隆はなかなか豪快な人だったようですが、過度の飲酒が祟って糖尿病になったらしく、四十三歳の若さで亡くなっています。道隆は父の摂政兼家の後継者として、一条天皇の関白になっていました。天下の柱石が亡くなったのは大変なことでしたが、もうひとつ、後継者は誰なのか、という問題も起こります。道隆の弟の道兼は「我こそは」と思います。実はこの人は父が亡くなった時に兄以上に自分が関白にふさわしいと思っていたのです。結局道隆が関白となるとやけ酒を飲むような人でした。ところがその道隆が重病になり、道隆が後継指名していた伊周(道隆の長男)が若すぎたこともあって、その生前に禅譲が認められなかったので、道兼はついに自分の時代だと喜んだのです。そして関白の地位にも就けたのですが、実は彼自身そのときは病身で、道隆に遅れること約1か月で亡くなってしまいます。世に、

    七日関白

と言われます。
その後は伊周と道長にさやあて(というよりは抗争)があって、結局ねじふせるようにして道長が実権を握ることになりました。
病気は恐ろしいものですが、権力争いをする者たちにとっては好機が到来するきっかけにもなるのです。現代でもそういうことがありますよね。

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コメント

人は進歩しないですね。

「藤原道長の病気」を拝読しています。そして人って進歩しないものだなと思います。
嫉妬、権力欲に権力争い。昔も今も変わりませんねぇ…。

🎵やたけたの熊さん

そうなんです。
病気という視点から過去を振り返ることで、まさに現代が見えてくる、そんなつもりでお話ししたいと思っています。

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