藤原道長の病気(3)
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こうして道長は念願の「一の人」(時の第一人者)になったのですが、世に「御堂関白」と言われるのとは違って、彼は関白にはなっていません。後に孫の後一条天皇の摂政には短期間就いていますが、これもすぐに息子に譲ってしまいます。望めばなれたであろう関白ですが、彼はなぜその地位に就かなかったのか、研究者の間でもいろんな意見があります。名より実を取ったとか、謙譲の人であるがゆえに遠慮したのだとか。私はまったく日本史研究については素人ですが、関白になった二人の兄が相次いで亡くなったことと何らかの関係があるのではないかと(なんの証拠もありませんが)考えています。
道長が左大臣として権力を握ったあと、三十二歳の長徳三年七月には「瘧病(ぎゃくびょう、わらわやみ)」のような症状で、重症となりました。その翌年三月には邪気によるとされる「腰病」(『権記』三月三日条)を患い、「年来出家の本意あり、かかる時に遂げんと欲す」(同)と考えていたというのです。そして、先日書きましたように、このときに大江匡衡に依頼して上表文を天皇に差し出しているのです。この上表文は
『本朝文粋』
という漢詩文集に収められているために現存していて、今でも活字で読むことができます(たとえば岩波新日本古典文学大系『本朝文粋』)。大げさともいえそうな表現で辞意を訴えています。ついでながら、こういう文は文頭、文末に書式があります。書き出しは「臣某言」なのですが、文末は「頓首頓首、死罪死罪、謹言」と書かれるのです。「頓首」や「謹言」は今でも手紙の文末に用いる人はいますが、なんでこんなところで「死罪」が出てくるのかと、初めて見るとびっくりしてしまいます。死罪に当たるような差し出がましいことを申しました、という謙遜の言葉なのですが。
道長はこのとき「病すでに危急なれば命を存(ながら)ふべからず。この時本意を遂げずんば、遺恨更に何の益かあらん」とまでいったようです(『権記』三月三日条)。大げさな表現をしたのかもしれませんが、ずいぶん気弱にさえ見えます。
結果的には事なきを得たのですが、今後もいつどうなるかわからないと思ったのか、道長は自分の「あと」のことを考えるようになります。父兼家が摂政になれたのは娘(詮子)が円融天皇の女御になって男子(のちの一条天皇)を産んだからです。道長は何としてもわが娘をその一条天皇の後宮に入れようとあせっていました。しかし道長はこのとき三十三歳で、長女の彰子は十一歳に過ぎません。それでも彼は速やかに娘を入内させようとして、翌年の二月に女子の成人式に当たる
裳着(もぎ)
をおこなったのです。裳着は女子が結婚できることを宣言する儀式でもありました。ただ、姉詮子が三月に、道長自身が五月に、息子の頼通が七月に病気になり、どうも落ち着きません。それでも十一月一日に彰子を入内させ、まもなく女御にしています。ちなみに彰子が女御になったまさにその日に、道長の兄の娘で一条天皇中宮である定子が男子を生んでいます。一条天皇の初めての男子、敦康親王です。天皇の第一皇子ですからこんなにめでたいことはない・・・はずなのですが。道長は日記にはこの皇子誕生のことはひとことも記していません。一条天皇にはわが娘彰子も入内しているわけですから、いわばライバル。さほど嬉しかったわけではない、いやどちらかというと眉を顰めるような出来事だったのかもしれません。そもそも、定子の出産は差し迫っているわけですからそんな時期に彰子を女御にするなんて非常識とも言えます。同じ日になったのは偶然なのか、意図的なのか。「書かなかった」気持ちを察するべきだと思います。
娘彰子を女御にしたからには、次は中宮にしなければなりません。しかし中宮には定子がいます。いくら何でも中宮を降りろとはいえませんから、道長は困ってしまいました。そのとき藤原行成が、定子を皇后に、彰子を中宮にする理屈を考えてくれて、翌年にはそれが実現します。書の達人としても知られる行成は優秀な人だったのですが、父親が若死にしたこともあって権力の傍流に位置することになってしまいました。だからこそ精一杯道長に尽くして自らの存在感を高めねばなりません。寄らば大樹、権力者のご機嫌を取るのはいつの時代にもあることです。
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- [2023/11/08 00:00]
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コメント
藤十郎さん
ご無沙汰しております。最高の権力のためには実の兄や甥も蹴落とす対象であるというすごい展開になりましたね。
道長兄たちや姉はそんなに若いうちから重い病気に苦しんでいたのですね。
第一皇子を産んだ定子は彰子の追い上げのためか、あまり幸福なイメージがなくてお気の毒です。
源氏物語誕生秘話につながりそうな続編が楽しみです。
🎵如月さん
そういうところがどうにも好きになれない(笑)人です。
ただ、道長は蹴落とした人間に対しては優しさを見せる人で、「とどめを刺す」ということはしないのです。何とも不思議な人です。
月末に、病気をキーワードにして、お話をしてきます。
道長様、お久しぶりです。
難解な道長様を思う時、娘さんの彰子さんは、どんな思いで天皇さんに尽くしたのだろう?父親の為の任務として向き合ったのかなぁ?と、そこに目が向いてしまします。
定子さまにメロメロだったらしい天皇さんにしてみれば、彰子さんの相手をするのも仕事の一つだったのかなぁ、とお気の毒に思います。
余計なお世話と、突っ込まれそうな独り言ですが‥。
🎵押しegoさん
彰子は入内したときは十二歳。小学校5年生の年齢でしたね。輝かしい未来が待っていると言いふくめられたのでしょう。
確かに、彼女は二人の天皇を産み、八十七歳の長寿を保ちましたから輝かしかったのですが、その息子には先立たれ、夫も早く亡くなり、どんな後半生だったでしょうね。
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