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藤原道長の病気(4) 

長保二年(1000)二月に藤原道長の娘彰子は中宮になりました。現中宮を皇后という名に移してわが娘を立后させるなどという強引なことをしても誰も文句が言えない時代だったのです。今でもこういうことはありますから、要するに現代の政治は貴族政治なのでしょう。
そんなことをしたので罰が当たったわけでもないでしょうが、その2か月後に道長はまた病気をしました。この病気もかなり重かったらしく、これ以後の彼の日記は当分の間空白になっています。見舞いに行った藤原行成に対して「鶴君のことを何かと気にかけてほしい」と遺言めいたことを言ったようです(『権記』四月二十五日条)。鶴君というのは頼通の幼名で、このとき九歳でした。
この病気のあいだには、行成の『権記』によりますと、厭魅や呪詛(相手を呪うおこない)があったとか、次兄道兼の霊が現れたとか、邪気が伊周(道長の兄道隆の子)の復位が叶えば病気は癒えるだろうと言ったというようなことがあったらしく(『権記』)、兄たちの

    執念、怨念

が病気と関わっていることを示唆するようです。
この長保二年の冬から翌年七月にかけてはまた疫病が流行しています。このときも「道路死骸不知其数」(『日本紀略』)というように多くの死者が出たようです。その中には、紫式部の夫である藤原宣孝も含まれており、この高齢の夫を失った彼女は、このあと中宮彰子の女房となってあの『源氏物語』を書くことになるのです。
道長の姉詮子は、この弟をとてもかわいがったようです。道兼の後継者を誰にするかという問題が起こった時、一条天皇(詮子の子)に強く道長を推薦したと言われています。道長にとっては恩ある姉なのです。その姉が長保三年(1001)に四十歳を迎えました。さっそく四十の賀がおこなわれるところですが、詮子は前年末から病気で、しかも前述のように疫病もあったために延期されます。そうこうしているうちにまた彼女は病気になり(九月)、結局賀宴がおこなわれたのは十月でした。しかし彼女はこの年末に藤原行成邸で亡くなっています。その日の行成の日記『権記』には「寅の刻に左大臣(道長)が来られた。酉の刻に(詮子は)亡くなった。(左大臣が)お嘆きは極まりないものであった」といういみのことが書かれています。
道長の同母兄姉たちはこうして次々に亡くなり、もっとも長生きしたのは道隆の四十三歳でした。
こうなると、まだ三十六歳とは言え、道長も自分の人生がさほど長くないのではないかと思ってもおかしくありません。
長保五年(1003)の道長はどうやら元気だったようで、宇治川や大堰川の遊覧をしたり和歌や漢詩の催しをしたり、石清水八幡宮から住吉まで参詣したり、興福寺まで出かけたり、なかなか健康的な日々を過ごしたように見受けられます。そんな日々を送るうちに、道長は、一族の墓のある木幡(京都府宇治市)に寺を建てようと計画しました。今、木幡小学校になっているところが、その

    浄妙寺

の跡地とされています。この浄妙寺建立は、自分の極楽往生に関わるものというより、藤原北家一族の菩提を弔い、将来の安泰を願う意味があったのでしょう。
ところがこの寺の建設中にも道長はまた病気をしています。長保六年(七月に改元して寛弘元年)には重舌(ラヌラ)に罹ったり、頭を打って臥したり、霍乱に苦しんだりしているのです。翌年もあまり体調は良くなく日記の記事の少ない時期もあります。そんな中で浄妙寺三昧堂の供養をおこなったときは感極まったようでした。

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