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藤原道長の病気(5) 

道長は浄妙寺三昧堂を建立して寛弘二年(1005)十月に供養をおこないました。このとき彼は四十歳になっていました。姉詮子の亡くなった年齢であり、兄道隆の享年にも近づいてきました。それだけに、道長は次世代のための行動をさらに加速させます。
ひとつには男子たちの出世の問題がありますが、寛弘二年時点では長男の頼通でもまだ十四歳ですからまだ重要な官職に就けるのはいささか早すぎるでしょう。しかも官位官職については道長が健在である以上ある程度は思いのままになるはずですからさほど慌てることもありません。
むしろ肝心なのは娘彰子の出産です。寛弘四年(1007)に彰子は二十歳になっていました。一条天皇に入内した時は十二歳の少女でしたからまだ出産は考えられなかったにせよ、いくら何でもそろそろ、と期待される(なんて言うと、今ならセクハラかもしれませんが)年齢です。当時の女性は初産の年齢がかなり早く起きてように思われているかもしれませんが、そんなに極端に早いわけではなく、20歳前後と考えておけば間違いないと思います。それにしてもそろそろですね。
実はこの年、驚くことに、道長の妻倫子が

    四十四歳

にして末娘嬉子を産んでいます。現代でもこの年齢ならかなりの高齢出産でしょうが、医学の未発達なこの当時にあってはいっそう大変だったことでしょう。倫子という人は九十歳まで生きるきわめて強い体力の持ち主(彼女の健康なからだは、彰子【八十七歳没】、頼通【八十三歳没】らに受け継がれます)ではあったのですが、それにしても大変だったに違いありません。
母親が何とか出産したとなると、ますます「次は彰子だ」という期待が高まってもおかしくありません。道長は彰子懐妊、出産の祈願の意味もあったのか、その年の二月に大和の春日社に参詣しています。春日は藤原氏の氏神なのです。
さらに道長は、

    金峯山参詣

に挑むことにしました。これは厄除けのためとも言われるのですが、私は、彰子の出産を願う気持ちが春日に続いての金峯山参詣を促したのではないかと思っています。
ところがこの年の春から夏にかけて、道長は咳病、頭風(風によっておこると考えられた頭痛)、眼病、腰の腫れなどの病気に苦しめられています。
それでも金峯山参詣のための精進を続けた道長は、八月にその目的を果たしたのです。この年には浄妙寺多宝塔も完成しており、道長の宗教心はさらに高まったかもしれません。
これらのご利益があったのでしょうか、翌寛弘五年にはとうとう彰子に男子が誕生します。敦成親王、のちの後一条天皇です。『栄花物語』「はつはな」は、彰子が懐妊したという知らせを受けた道長の心の内を推し量って「御嶽の御験にや(金峯山に参詣したおかげだろうか)」と記しています。
彰子はさらにその翌年にも男子(敦良親王。後の後朱雀天皇)も産み、こうなると道長家の権勢は盤石となり、おのずからあの定子が産んだ敦康親王の立場はかなり弱いものになってしまいます。

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