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藤原道長の病気(6)~寄り道 

道長の病気は、このあと人生の終盤になるにつれてさらに深刻なものになります。それは次回に回して、ひとつ寄り道をしておこうと思います。
道長が浄妙寺を建立したのは、一族の墓のある木幡の地でした。自分の後世を願うためなら木幡のような遠隔の地に立てる必要はなく、事実彼はのちに自らの終焉の地として都の中に九体阿弥陀堂(無量寿院)を建立します。
浄妙寺を建立する理由について、道長は、願文(建立の趣旨を記した文。大江匡衡に作成させた)の中でこんなことを言っています。
  私は若い頃に父に随って木幡の墓所に
  何度も来たが、多くの塚があるばかり
  で整備されておらず、どこにも読経の
  声はなく、聞こえるのは鳥や猿の声だ
  けだった。そのときひそかに涙を流し
  て、いつか身分が高くなったら、この
  地に三枚堂を建てて故人を追悼しつつ
  未来を願おうと決意した。
美文に飾られた願文ですから多少の誇張はあるかもしれませんが、一族の菩提を弔いつつ永劫の隆盛を願う気持ちが三昧堂を建てさせたことは大筋では事実でしょう。
このとき彼は、兄道隆の家(中関白家と言われます)はもちろん、少し血縁の薄い家でも、藤原北家に連なる一族を統括して自らがその頂点に立つことを示すかのように、それらの家の人々も集めて三昧堂を供養するのです。
道長の父は嫡男ではなく、道長もまたそうではありませんから、本来ならこういう場で末座にいてもおかしくないのは道長の方なのです。ところが、現実には彼こそが一族の中心にいて誰もそれに異を唱えることはありません。三昧堂供養が道長にとって法悦を感じる催しであったことは諸史料からうかがえますが、それと同時に、力を弱めた嫡流の人たち(父の兄の系統の家や中関白家など)を従えるような自らの姿に、満ち足りた思いを抱いたという側面もあったのではないでしょうか。
この供養の座には中関白家の

    藤原伊周

やその弟の隆家もいました。彼らはどんな思いで道長の振る舞いを見ていたのでしょうか。
伊周という人は文才があって、政治家というより文人の趣すら持っています。やや屈折した性格の持ち主である伊周は、胸に一物を秘めていたかもしれません。伊周はこのあとも中関白家のプライドを強く持っていたように思います。
それを象徴する出来事があります。
寛弘五年九月十一日に中宮彰子が敦成親王を生んだことで、伊周の甥にあたる敦康親王の立場が苦しくなったことはすでに述べました。これは伊周にも大きな打撃でした。もし敦康親王が皇位に就けば、伊周は天皇の伯父となり、復権の可能性があったのですが、事実上これでその夢は断たれたからです。
その敦成親王の誕生百日を祝う宴の席で、伊周は不思議なことをしました。座が盛り上がって詩を作ろうという話になった時、突然伊周が

    「私が序題を作りましょう」

と言い出したのです。序題というのは、序文のようなもので、漢詩の会の趣旨などを述べるものです。
一座の人は「立場をわきまえろ」というように怪訝な顔をしたのですが、伊周はおかまいなしに「第二皇子誕生百日のお祝いで盃をやりとりしている。帝(一条天皇)は隆周の昭王や穆王のように長く帝位にあり、我が国の桓武天皇や醍醐天皇のように子も多い。康きかな帝道」云々という序題を書いたのです。表面上は祝いの言葉が多いのですが、敦成親王をわざわざ「第二」皇子であるといい、天皇には多くの子があると述べ、「帝道は安康だ」と「康」の字を入れた言葉を用いています。「帝には第一皇子である敦康親王がいる」「跡継ぎはこの皇子だけではない」と言い、敦康親王を想起させる「康」の字をあえて用いており、これでは敦康親王がいれば世は安泰だと言っているようなものです。
また周の昭王、穆王の例を引いていますが、その国名として「隆周」という言葉を用いており、なんとなく隆家と伊周を想像させます。深読みかもしれませんが、全体の意味として「私と弟が後見して敦康親王が帝位につけば世の中は安泰です」と言っているようにすら見えてくるのです。なんとも鬱屈した伊周の気持ちがうかがえるようです。
しかしその伊周の執念は実ることはなく、彼は二年後に三十七歳で亡くなるのです。

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