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藤原道長の病気(7) 

興味のない方には、ほんとうに意味のないことばかり書いています。実は、今度おこなう講演会の最後に、「ここで話しました内容はある程度ブログに書いていますのでご覧ください」といってQRコードをプリントしておこうかなと思っているのです。そのため、多少長くなるのですが、書き続けているというわけです。また、遠方の方から「どんな話をするの?」と聞かれたことがあり、いっそここで読んでもらえたらありがたいなと思ってもいるのです。
昔の人は四十歳から賀の祝い、つまり長生きのお祝いをしました。それはつまり四十歳を超えるといつどうなるかわからない、という気持ちに裏返しでもあります。私も40歳までに何人もの友人が亡くなりましたが、それは例外的なことで、現代では一般的に四十なんて人生の半分に過ぎません。まだまだギラギラしている年代で、

    「後世を願う」

という悟りの境地には至らないのが普通でしょう。
藤原道長は、寛弘五年、六年に続けて孫ができて、しかもそれは天皇の子で、さらに当時の事実上の皇位継承資格であった男子ということで、とても嬉しかったことでしょう。
しかし、一条天皇は寛弘八年(1011)六月二十二日に亡くなります。まだ三十二歳という若さでした。春宮(皇太子に当たる)であったのは居貞親王で、この人は母親が道長の姉の超子ではありましたが、超子が早くに亡くなっていたこともあって、あまり親しい関係ではないのです。道長とすれば、本当は我が孫をすぐにでも天皇にしたいくらいなのです。でも、その孫は四歳と三歳。ここはしばらく居貞親王に皇位を継がせて、春宮に我が孫敦成親王(後の後一条天皇)を据えるほかはあるまいと考えました。ここに

    三条天皇

が誕生します。この人は気の毒なことに病気がちで、目が不自由でもありました。『百人一首』に「心にもあらで浮世にながらへば」の歌が採られている、あの人です。同じ天皇といっても光孝天皇(君がため春の野に出でて若菜摘む)や崇徳院(瀬をはやみ岩にせかるる)とは似ても似つかぬ憂鬱な歌です。
道長との関係もどこかぎくしゃくしていて、即位したのに自分の息子(敦明親王)を春宮にすることもできず、結局は5年ほどで退位することになります。そのときに敦明親王をまだ幼い天皇である後一条の春宮に据えることだけは成功するのですが、やがてこの人も春宮の地位を追われてしまうのです。道長は普段はいい顔をしていても、こういうところがとても傲慢だと思います。
さて、その三条天皇の時代の寛弘九年(1012。12月に改元して長和元年)六月に四十七歳の道長はまた病気をして上表します。

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