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藤原道長の病気(8) 

天皇が亡くなると、その翌年に元号を改めることになっていました。一条天皇が亡くなったのは寛弘八年(1011)でしたので、寛弘九年が改元の年です。ところがなかなか機会がなくて暮れも押し詰まった頃にやっと長和元年(1012)となったのです。ここで話題にするのはまだ寛弘九年のころです。
一月十六日に道長にとってはとても悲しい出来事がありました。三男に当たる顕信が突然出家してしまったのです。顕信というのは、道長の「もうひとりの夫人」ともいうべき明子が産んだ子です。道長にはもっとも有名な倫子という奥さんがいて、この人は彰子、頼通、姸子、教通、威子、嬉子という四女二男を生みます。それに対して明子という人は頼宗、顕信、能信、寛子、尊子、長家という二女四男の母となりました。なんとも多産な人たちです。どちらかというと倫子が正妻格で、道長は彼女と同居しています。子どもたちも倫子所生の子のほうが出世しています。
顕信のにわかの出家は、道長もちろんなのですが母親の明子が相当なショックを与えてしまいました。
一方、翌月には、一条天皇中宮であった彰子を皇太后とし、新しい帝である三条天皇に入内していた彰子の妹の姸子を中宮としました。どちらも倫子所生の娘たちで、この二人の妻の明暗を感じます。
この年の四月に三条天皇は

    道長に対する不満

をこぼしています。藤原実資の兄懐平が参内して帝の御前にいたとき、天皇が「左大臣(道長)は私に対して無体なことこのうえない。この一両日は寝食もふだんのようにはできず、憂うる気持ちがひどい」と語ったというのです。天皇はかなりご機嫌が悪かったようです。道長は三条天皇に対して、このあとも繰り返し退位を迫ることになります。
三条天皇は、美貌と伝わる女御藤原娍子(藤原済時の娘。敦明親王ら二女四男を産む。美貌と伝わる)を皇后としたのですが、その立后の儀式の日、大臣三人が参内しなかったり、道長の娘中宮妍子をわざわざこの日に内裏に参らせて立后尾の儀式を等閑にさせたりするなど道長の妨害に遭います。藤原実資は『小右記』の中で「相府立后事頻有妨遏」(寛弘九年四月二十七日)と記しています。左大臣(道長)が、立后のことでしきりに

    妨害している

というのです。「妨遏(ぼうあつ)」は妨げることです。
その年の五月の末に、道長はまた重い病気にかかり、飲食物を受け付けないほどひどかったようで、大臣をやめるとまたも辞表を書かせます。
気が弱くなった道長は、藤原実資に向かって「今日は発作のない日で、平常を保っているが、病躯は普通ではなくながらえられそうにない。こうなっては何も思うことはなく命は惜しくないが、皇太后、中宮、春宮のこと、ほかの子どもたちのことの中でも皇太后のことが歎かれるばかりなのだ」と漏らします(『小右記』寛弘九年六月九日)。皇太后は道長の長女彰子のことです。
この少し後に、実資は日記におもしろいことを書いています。彼の養子(兄の子)の資平がこんなことを言いました。「左大臣の病気を喜ぶ公卿が五人いる。それは大納言道綱、実資、中納言隆家、参議懐平、通任だという風説がある」(『小右記』寛弘九年六月二十日)。これを聞いて実資はどんな気持ちになったでしょうか。
その後、道長が「私の病気の際に喜んだ人が五人いると最近聞いたが、まったく奇妙なことだ。中宮大夫道綱と右大将実資はそんなことはないだろう」と言ったことが実資のところに伝わった(『小右記』寛弘九年七月二十一日)ので、実資は胸を撫でおろしたかもしれません。

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