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藤原道長の病気(9) 

当時は、病気の原因として祟りなどが取りざたされることがありました。寛弘九年の道長の病気については、『小右記』がこんなことを書いています。

道長の病気は日吉社の祟りだ(六月四日)
道長の住む建物の上から人魂が出た(六月八日)
鵄(とび)が死んだ鼠を道長の歩く二、三歩前に落とした(六月十一日)
道長が法性寺に入ろうとすると蛇が落ちてきた(六月十一日)

祟りと言われたうえに、なんとも不吉な怪異が続いたものです。
ところで、道長以上に三条天皇も病状が悪化していきます。長和三年(1014)になると「近頃、片目が見えず、片耳が聞こえない、ひどく苦しいが夜になるとさらにつらい」(『小右記』長和三年三月一日)、「近ごろ左目が見えず、鼻が利かない」(『小右記』長和三年三月十六日)と天皇は漏らしているのです。
そんな折、道長は自分の息子を昇進させるよう天皇に迫ったりしますので、実資は腹が立って「乱れた代のさらに乱れた代だ、上達部の数は果てしなく増えている。また天皇に

    譲位を迫った

ので『まったく我慢ならない』と天皇がおっしゃったとのことだ。奇怪と言うほかはない」(『小右記』長和三年三月二十五日)とかなり怒っているのです。
長和四年(1015)には、道長がトイレに行ったときに廊下から転げ落ちて足を怪我する(骨折したか?)というできごともありました。かなり腫れたらしく、水蛭に悪血を吸わせるという治療もしています。水蛭というのは乾燥したものを服用したり、こうして血を吸わせたりする形で医療によく用いられます。
天皇の病状はさらに悪く、道長は遠慮なく譲位を迫ります。そうすると天皇は鬱屈してまた悪化するという悪循環です。
道長は、天皇はすでに物が見えなくなっているので仕事ができないから退位してもらうほかはないという理屈で辞めさせようとします。さらに道長は「天皇の皇子は次の春宮になるには物足りない人ばかりだ、その点、第三皇子(道長の孫の敦良親王)はその器量がある」と勝手なことを言っています。
追い詰められた天皇はついに譲位を決断します。しかし春宮には何としても自分の第一皇子である敦明親王を立てたいと思っているのです。
長和四年は、道長の五十歳の年です。十月二十五日には

    五十の賀

がおこなわれます。
この日のことを道長は日記に書いています。
「太皇太后宮(藤原公任)が私を祝う歌を詠んでくれた。それを能筆の藤原行成が書き留めた
相生の松をいとども祈るかな
千歳の蔭にかくるべければ
 (これからも一層のご厚誼をとお祈りします。私
はあなたさまのおかげを末永く蒙る身ですので)
それに対して私はこう返した。
老いぬとも知る人なくはいたづらに
谷の松とぞ歳を積ままし
(歳をとっても友人がいなければ人目に立たない谷の
松のようにむだに年を取るばかりです。これからもよ
ろしく)」(『御堂関白記』)長和四年十月二十五日)
と漢文日記なのに、仮名を用いて書いています。ここには、政争も陰謀も何もない、仲の良い公任とのやりとりが見られ、道長の嬉しそうな顔が想像されます。道長の和歌というと、「この世をばわが世とぞ思ふ」が有名ですが、あの歌を詠んだときよりも、こちらのほうが彼の一人の人間としての幸せすら私には感じられます。
翌長和五年正月二十九日、道長の思わくどおり、三条天皇は譲位します。天皇の精一杯の抵抗は、道長の意に反して我が第一皇子敦明親王を春宮に立てたことでした。道長はこれを不服として、春宮に渡される壺切御剣(つぼきりのみつるぎ)を敦明親王には渡さないという行為に出ました(『小右記』寛仁元年八月二十三日に過去の出来事として書かれている)。こういうことをする道長の人間性は、私はどうにも好きになれません。
ただ、この敦明親王という人は暴力事件を起こすなど、いささか気性の荒いところがあったようで、春宮にふさわしくないという意見もまんざらでたらめではなかったのかもしれません。

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