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藤原道長の病気(10) 

道長五十一歳の長和五年(1016)、道長は盛んに水を飲みます。五月の法華三十講の際にも、頼秀阿闍梨という僧が実資に「摂政道長様は仏前にいらっしゃるのに、途中で御簾の中にはいられます。水をお飲みなのではないでしょうか。お顔色も悪く、気力がないようです。慎まねばならず、最期が近づいているかもしれません」(『小右記』長和五年五月十日)と物騒なことを言います。
実際、道長自身も「三月ごろから頻りに水を飲み、特に最近は昼も夜も飲んでいる。口が渇いて元気もない。食べる量は減っていないのだが」「豆汁、大豆煎、蘓蜜煎、呵梨勒などを常用しているから、それが原因かもしれない」(どちらも『小右記』長和五年五月十一日)と言っています。ただ、「その後、医師の勧めによって葛根を用いると水を飲まなくなって元気も出てきた」(『小右記』長和五年五月十日)とも言います。もっともこれについて実資は「葛根なんて庶民が食糧が亡くなった時に食べるもので、上流貴族が食べたという話は聞いたことがない」と記録しています(『小右記』長和五年五月十日)。
さらに実資は、心誉律師から「先日夢に亡くなった大僧正観修らが現れて『摂政は来年必ず死ぬ』とおっしゃっていました」(『小右記』長和五年五月十日)と伝えるのです。
長和六年(1017)には道長は摂政を辞めます。予定通り、息子の頼通を後継者にするのです。この年、寛仁元年と改元されたあと、五月にはあの

    三条上皇

がついに亡くなります。道長との確執で必ずしも幸福な天皇ではなかったでしょう。
さて、こうなると春宮になっている敦明親王(三条上皇の子)はまったく後ろ盾がなく、居心地が悪いことこの上ないのです。今の天皇(後一条)は自分より十四歳も年下の十歳なのです。どう考えても将来自分が皇位に就くことはないでしょう。追い詰められた春宮はついに道長に「春宮を降りる」と、自ら伝えます。道長は「どうぞそんなことはおっしゃらずに」としらじらしく止めるのですが、そこまでおっしゃるなら、と了承します。
この年の十二月に太政大臣となった道長ですが、これも翌寛仁二年(1018)の二月には辞めてしまいます。そして、四月九日、妻の倫子と一緒に娘の姸子を訪ねた後、亥の刻(夜の十時前後)にひどく重い

    胸病

に苦しめられました。丑の刻(午前二時前後)には少し収まるのですが、今後この胸病が彼についてまわります。このあと道長の日記『御堂関白記』は記事が減り、体調不良をメモのように記すことが増えていきます。閏四月十七日の『小右記』によれば、その前夜、苦しみのあまり大声で叫んだとさえ記されています。
資平が実資に語ったことによると、「最近三条上皇の霊が多くあらわれる」とのことです(『小右記』寛仁二年五月二十一日)。そりゃ、三条さんも祟りなくもなったでしょう。さらに別の人物が言っているのは「貴船神社の祟りで。敦明親王の妻の一人(藤原顕光の娘延子)の呪いによるものだ」ということです(『小右記』寛仁二年六月二十四日)。道長が、春宮を下りた敦明親王に我が娘を「ほうび」のように差し出したことで、元の奥さんが恨んでいるのでしょう。というと、これは「うはなりうち(先妻が後妻を恨んで何らかの害を与える卯こと)」の一種で、貴船と「うはなりうち」といえば後に謡曲でもおなじみになっていきます。

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