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藤原道長の病気(11) 

寛仁二年は道長にとって健康問題の重なった日々が続いていたことがお分かりいただけたでしょうか。ところがこの年の十月十六日、日本史の教科書にも出てくるようなできごとがあります。
それに先立つ、この年の三月七日に道長の妻倫子が産んだ娘としては三女に当たる威子が尚侍として入内しています。時に威子は十九歳、事実上の天皇との結婚です。ところがこの天皇とはご一条天皇のことですから、道長の孫、威子から見ると甥にあたります。年齢は十一歳。とんでもない結婚です。今の学年でいうなら、花婿さん小学校4年生、花嫁さん高校3年生です。そして十月に彼女は

    中宮

に立てられます。道長の長女彰子が太皇太后、次女姸子が皇太后になっていますので、一家の中から三人の「后」が同時に誕生したわけです。病気でヘロヘロになっている道長ですが、権力は相変わらず奮い続けています。
この夜の儀式で、道長は「余読和哥、人々詠之」と簡単に書いているのですが、この歌があまりにも有名なものです。『小右記』がこのあたりの事情を次のように書き留めています。
道長が実資を招き寄せて、「和歌を詠むから答えてくれ。いい気な歌なのだが、あらかじめ作っていたものではない」と言って次の歌を披露しました。

このよをばわがよとぞ思ふ
望月の欠けたることもなしと思へば

すると実資は「この和歌は何と優美なことでしょう。とてもお答えなどできません。皆で朗唱しましょう」と言ったのです。
有名な歌です。私が初めてこの歌を知った時、恰幅の良い、いささか傲慢で自信にあふれた中年の政治家の歌のように思いました。その考えは一般的にも通用するもののように感じます。しかし実際は、胸を病み、目を病んで祟りと噂されている初老の男の精一杯強がって見せた歌だったように見えてきました。
この直後、道長は盛んに「目が見えない」と言うようになり、賀茂川で解除(陰陽道で災いを避ける儀式)したり、僧に修法を行わせたりしています。
その後は、胸の病気を訴えることが多く、「胸病発動、辛苦終日」(『御堂関白記』寛仁三年二月三日)などの記事が散見します。
目はさらに悪化して、「二三尺離れたところにいる人の顔が見えず、

    手に持っているものだけ

が見える」というありさまになりました。
そのため、陰陽師や医者(こういうところにも陰陽師が出てくるのですね)の勧めがあって魚肉を食べることにしたのです。彼はもう出家していますから、本来なら口にしないものです。「是只為佛法、非為身」(『御堂関白記』寛仁三年二月六日)と書いているように、あくまで仏道修行のためだと言っています。そして肉食をする間は『法華経』一巻を書写することにしました。こういう日記の記事を彼はどうやって書いたのだろう、というその姿を想像してしまいます。相当見づらかったでしょうに、目を近づけて書いたのでしょうか。

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コメント

藤十郎さん

>このよをばわがよとぞ思ふ
望月の欠けたることもなしと思へば

>私が初めてこの歌を知った時、恰幅の良い、いささか傲慢で自信にあふれた中年の政治家の歌のように思いました。

私もこの歌からこういうイメージを持っていましたから、和歌による道長のイメージ戦略は現代でも成功しているということなのかもしれませんね。

先日道長の日記の実物を展覧会でちらりと拝見したのですが、大胆な筆致に思える箇所もあったのですが、目がよく見えなかったことが影響しているのかもしれませんね。

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