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藤原道長の病気(12) 

『御堂関白記』は、道長の病状が悪くなるにつれて、当然のように記事が少なくなり、長文も減っていきます。
その中で、寛仁四年三月二十二日の記事は久しぶりに書かれ、しかも七十字(もちろんすべて漢字)に及ぶものです。その最初には「此日、無量寺供養」と記されており、道長の邸土御門第に隣接する無量寿院(のちに法成寺に発展)の供養を喜ぶ内容が書かれています。京都御苑の東、府立鴨沂高校の北、荒神口通を少し東に行った北側に小さな石碑が建っていて、そこには「従是東北 法成寺址」と記されています。ここが道長の終の棲家になるところなのです。
現存する『御堂関白記』の最後の記事(自筆ではない)治安元年(1021)九月のもので、一日に「初念仏、十一万遍」、二日に「十五万遍」、三日に「十四万遍」、五日に「十七万遍」とあります。自筆では寛仁四年(1020)六月二十九日の「初卅講、十斎佛未奉作、三躰作了、奉立堂」です。
萬壽二年(1025)、六十歳になった道長にとって大変な悲劇が訪れます。娘の寛子(敦明親王妃)が年来霊気に取りつかれていたのですが、遂に水ものどを通らなくなってしまい、七月八日に出家します。こういう場合の出家は、もう命が危ない時に、最後の手段として仏の加護を得るためのもので、多くの場合は出家してまもなく亡くなります。寛子もその翌日「小一条院上、今暁入滅云々(小一条院の妃藤原寛子が今日の暁に亡くなった)」(『左経記』萬壽二年七月九日)という結果になりました。『左経記』というのは源経頼の日記です。「左大弁経頼」の日記で『左経記』です。
そのわずか1カ月後、春宮敦良親王(道長の孫)の尚侍になっていた藤原嬉子(道長の末娘)が親仁親王(後の後冷泉天皇)を産んだのですが、二日後の八月五日には、流行していた

    赤斑瘡(あかもがさ)

のために亡くなってしまいます。彼女はまだ十九歳でした。この人が亡くなったことについては、藤原顕光とその娘の延子(どちらも故人)の霊が祟ったとも言われますが、先の寛子に憑いた霊も同じだったのかもしれません。
道長はこの年齢になって娘二人を立て続けに失うという悲しみを味わうことになります。何の報いなのでしょうか。藤原実資もさすがに同情的で、「連月有事如何(二か月続いてこういうことがあるのはどういうことなのだろう)」(『小右記』萬壽二年八月五日)と書いています。
この期間、道長本人の健康については、あまり記録がありません。
そしてとうとう

    萬壽四年(1027)

がやってきます。
この年にも道長は娘を一人先立て、さらに彼自身も彼岸に旅立つことになるのです。

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