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藤原道長の病気(13) 

息子(顕信)に出家され、娘寛子、嬉子に先立たれ、自らも出家した道長です。幸いにして流行病には罹らなかったようですが、風病、重舌、頭痛、咳病、霍乱、腰病、腫物、痢病、胸病、飲水病、眼病、そして物の怪による懊悩も体験してきました。
萬壽四年(1027)には、道長を最後の試練が襲います。
秋七月十九日に、道長は痢病に罹っているのですが、それどころではありません。
三条天皇中宮となって微妙な立場の人生を送ってきた姸子が重病になっているのです。手足が腫れているそうだ、と例によって藤原実資のところに養子の資平がやってきて伝えます(『小右記』萬壽四年七月十九日)。八月一日にはさらに重篤になっているという報告も実資のところに来ます。そして「中将云、宮御悩似有恐、昨日内府云、十分之九無所馮(中将資平が言う。皇太后妍子のご病状は危機的です。昨日内大臣=教通がおっしゃるには、十分の九までは無理だろう、とのことです)」(『小右記』萬壽四年九月四日)と実資は書いています。そして九月十四日、妍子は臨終に際して出家し、やがて亡くなります。
これで道長は
    三人の娘

に先立たれたことになります。
こうなると、老境の法師にとってはもう生きる気力がなくなっても不思議ではありません。十月二十八日には痢病を起こし、耐えがたいような苦痛に見舞われています。十一月には「太危急坐、乍臥有汚穢(甚だしく危険な状態でいらっしゃり、臥したまま汚物にまみれていらっしゃる)」(『小右記』萬壽四年十一月十日)というありさまで、寝た状態で便や血を出していたのかもしれません。下からだけでなく、嘔吐や吐血もあったのではないでしょうか。
さらに十一月二十一日には飲食がすでに途絶え、背中に腫物もできました。そして十一月二十五日に道長は

    阿弥陀堂

に移されました。これはもう臨終の場という意味でしょう。阿弥陀の来迎を眼前に観ることができる場です。
十二月二日、丹波忠明(医師)が背中の腫物に針を刺します。膿汁や血が少々出ました。『小右記』はその時の道長が「吟給聲極苦気也(うめきなさるお声はひどく苦しげだ)」と伝えています。
そして十二月四日のこと。道長は前日息を引き取ったようだったのですが夜になってからだが動く気配がありました。しかし、この日の寅の刻(『小右記』による)に亡くなったのです。
道長の長い長い病気と闘った人生でした。あと4年あまりで道長が亡くなって1000年を迎えます。
ところで、道長が亡くなったまさに同じ日に、もうひとり急死した人がいます。藤原行成です。優美で、書の達人で、インテリで、機転が利き、道長をずいぶん助けた人でもありました。最後の官職は按察使大納言、五十六歳でした

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