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学生はつらい 

平安時代も半ばになりますと、藤原氏がほかの氏族を排斥して我が世の春を決め込みます。さらに藤原氏の中でも、北家と呼ばれる一門以外は端に追いやられます。さらにさらに、その中でも権力争いがあって、かつては摂政を出した家柄が何らかの事情でわきに追いやられることもあります。その事情というのは、たとえばその家の働き盛りの長男あたりが若くして亡くなるということがあります。書家としても有名な藤原行成は摂政伊尹の孫なのですが、父の義孝が疱瘡に感染してわずか二十一歳で亡くなった(そのとき行成はまだ三歳)のです。義孝という人は信仰心が篤く、大変な美男子で、和歌も巧みな人でした。『百人一首』にも「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」が採られています。誠に惜しい人材だったというべきでしょう。その結果、これまた優秀だった息子の行成も、正二位権大納言には至りますが、摂政など夢のまた夢のまま終わったのです。
それでもまだこういう人たちはそれなりに出世できたのです。それすら叶わない人にとっては何とか生きる道を見つけねばなりません。そこで頭脳明晰ながら家柄がもうひとつ、という若者たちは

    大学寮

で勉強したのです。今も昔も試験が大変で、まずは寮試(大学寮の試験)というのがあって、それに合格すると擬文章生(ぎもんじょうのしょう。擬生)、さらに省試(大学寮を管轄する役所である式部省の試験)に合格すると文章生(もんじょうのしょう。進士)になります。さらにその特待生である文章得業生(もんじょうとくごうのしょう)となって対策(秀才試)という試験に合格すると任官の道が開けました。
例えば紫式部の時代の代表的な知識人であった大江匡衡は擬文章生、文章生となって対策に合格し、東宮学士、文章博士などから式部大輔に至っています。彼の漢文の文才は多くの人の認めるもので、藤原道長などは漢文作成の必要があると匡衡を頼りにしています。
今と違って、もっとも重要な学問は古代中国史や漢詩文で、それを専攻、教授する、いわば文学部教授の

    文章博士

は、官位としては従五位下に相当しました。そのあとは明経博士(儒学。正六位下相当)、明法博士(法学。正七位下相当)が続き、音博士(経書の白読)、書博士(書道)、算博士(算道)が従七位上でした。これらはすべて大学寮の博士なのですが、典薬寮(てんやくりょう、くすりのつかさ)に属する医療関係の博士もいました。医博士、針博士などがそれで、もっとも位の高い医博士でも正七位下で、文章博士の地位の高さが浮き彫りになります。今の医学博士と文学博士を比べると、まったく逆ですね(笑)。
大学で勉強するのはなかなか大変で、試験に合格するのも難しかったようです。『源氏物語』の中では、光源氏の息子の夕霧が、名門の子弟にしては例外的に大学寮で学ばされます。これは光源氏の教育方針によるもので、この息子は「どうして源氏(皇族出身の氏)である自分が大学なんかに・・」という不満があったようです。ただ、彼が偉かったのは、猛烈に勉強して誰にも負けないほど優秀だったことです。

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