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紫女年わかく 

紫式部は、父藤原為時の血を引くだけのことがあって、漢詩漢文への理解に並々ならぬものがありました。『源氏物語』の端々に出てくる漢文学の知見は舌を巻くほかはありません。
彼女はかなり年の差があったと思われる藤原宣孝と結婚(それ以前に結婚の経験があったという説もある)して長保元年(999)ごろに一女(大弐三位)をもうけますが、夫がその2年後に亡くなってしまいます。そして4~5年のちに一条天皇中宮の藤原彰子(読み方はわかりません。やむを得ず音読みで「しょうし」と言われることがあります)の女房になりました。彰子は左大臣藤原道長の娘です。なお、紫式部はもともと道長の妻倫子に出仕していたという考えもあります。
紫式部の女房としての生活が生き生きと描かれるのが

    『紫式部日記』

で、寛弘五年(1008)の彰子の出産の頃からの記録が残されています。この日記の中で、紫式部が『源氏物語』の清書や造本にかかわっていることがわかり、また同年十一月一日には道長の屋敷で藤原公任から「このわたりにわかむらさきやさぶらふ」と冗談を言いかけられたことも記されています。このことによって2008年に源氏物語千年紀の催しが行われ、「古典の日」が11月1日に定められたのです。
歌人の

    与謝野晶子

は『源氏物語』の現代語訳をしていますが、この人の平安時代に関する知識もたいしたものだと思います。もし彼女が平安時代に生まれてやはり道長の娘に仕えていたら紫式部や和泉式部と並び称されていたかもしれません。
与謝野晶子の歌にこういうものがあります。

  源氏をば一人となりて後に書く
    紫女年わかくわれは然らず

紫式部は夫に先立たれてから『源氏物語』を書いたが、その時まだ年若かった。でも私はそうではない・・。
この「紫式部は若かったが私はそうではない」という部分は、散文的に読んでしまうと実につまらなく感じられます。しかしこれを短歌にしてしまったことで、「私はそうではない」がまことに詠嘆的で彼女のため息すら聞こえてきそうです。彼女には歌人としての、平安時代の研究家としての自負もあるでしょう。しかし、紫式部はまだ30歳そこそこであの『源氏物語』を書いたのです。気が遠くなるような大作を若くして書いた紫式部の才能の前に、与謝野晶子というたぐいまれな歌人がひれ伏しているような印象も持ちます。
私は、『源氏物語』の講座をかつて大学でかなり長い間続け(講座を維持するお金がないらしく、なくなってしまいました)、今は大阪で実施しています。ひたすら勉強してはお話しするということの繰り返しで、たいしたことはできていません。晶子の歌の「われは然らず」という部分は、晶子以上に私にとっては骨身にしみるようです。

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