昭和30年の上演~曾根崎心中(2) 

「曽根崎心中」といえば、私は玉男・簑助がほとんどです。
もちろん、玉男・文雀、清十郎・簑助、文昇・紋寿、文吾・紋寿、玉幸・一暢、簑太郎・簑助等々、いろんなコンビがありましたが、今回の放送は本公演では初めての

    勘十郎 玉女

です。21世紀の名コンビとしてこれからも繰り返し上演されるコンビでしょう。

ところで、現行の形での初演は昭和30年ですが、この時は

    栄三 玉男

でした(因会の上演)。栄三は二代目、玉也さんの元の師匠ですね。
そのほかの出演は次の通りでした。

 生玉社前 津太夫 寛治郎(後の六世寛治)
 天満屋  綱太夫 弥七
 天神の森 雛太夫(徳兵衛) 南部太夫(お初) 織部太夫
        猿糸  錦糸  寛弘(現寛治) 清好
  
 九平次 玉市  平野屋久右衛門  玉助
 田舎客・天満屋惣兵衛  常次  惣兵衛女房  紋太郎
 下女  玉昇  丁稚長蔵  玉之助
 町の衆 万次郎、玉米   よね衆  淳造  

ご覧のとおり、この時は

  今と全く同じ形での上演ではなかった

のです。

にほんブログ村 演劇ブログへ
 ↑応援よろしく!

平野屋の亭主が久右衛門として登場、天満屋の亭主には惣兵衛という名があり、女房も出てきます。逆に下女は名はありません(今はどういうわけか「玉」という名がついています)。
町の衆もきちんと人形遣いの名が記されていますので、人形は三人遣いだったのでしょう(今はツメです)。そして、天満屋には九平次と一緒にこの町の衆もやって来たようです。
さらにこのあと昭和34年の南座公演あたりからは町の衆には「佐平」「太兵衛」という名までつくようになります。昭和45年朝日座まではこの名が見えますが、同年9月の国立劇場公演からは名が消え、昭和49年朝日座からは人形遣いの名も書かれず「大ぜい」となります。

平野屋が出てくると言えば歌舞伎がそうですね。おそらくこのときは歌舞伎の逆輸入で、原作には出てこない平野屋を出したのでしょう。

久右衛門はお初に向かって、

  あの正直な徳兵衛をどのようにだましたのか

と恨みごとを言い、徳兵衛を返して欲しいと頼みます。ところが、お初から生玉での一件を聞くと、

  九平次は腹黒い男で、私もだまされたことがある
  九平次の悪事を洗いざらい理非を正して見せてやる


と言って帰っていくのです。
このあと徳兵衛の登場となるのでした。

このように、昭和30年の曾根崎心中は原作をかなり単純化、簡素化したものではありますが、現行のものはさらにそれをスリムにしたものになっているようです。

こうしていくらかの曲折を経て現在に至っているわけですが、今後もまた手直しがされることがあってもいいでしょうし、演出は新しいものが出てくることを私はむしろ期待しているのです。

スポンサーサイト

コメント

太夫と大夫

数ある演目のなかでコンパクトにまとまった作品は、曽根崎と壷坂が双璧ですね。とくに曽根崎は、永いブランクを経ての復活ということもあってか、原作から削ぎに削いだようですね。でも「時代に合った作品」として貴重だなと思います。改作物がたくさんあるように、古典も時代に合うよう改良を重ねることは必要だと思います。継続して上演している作品ほど、どこまで改良すればいいか悩むことになりますが。

ところで昭和30年初演時は、「津太夫」と、いわゆるチョボが付いているのですね。
いつからチョボを取ったのでしょうか?またどういう経緯だったんですか?

♪やたけたの熊さん

当時すでに因会では「大夫」を使うことにしていたようですが、プログラムには「太夫」とありましたのでそのまま記しました。流動的な時期だったのでしょうね。
山城少掾の意向だったという話が伝わっているようですが、今では固有名詞ではもちろんのこと、職分としての太夫も「大夫」と表記されることが多くなってきていますね。
元祖の義太夫も「太夫」「大夫」両方で書かれることがあったようですが、今では「義太夫」で統一されているわけですから、私は「太夫」でよいと思っているのです。
でも、よほどのことがないと変わらないでしょうね・・。

チョボ

「大夫」とチョボを取ったのは、山城少掾の意向だったんですか。歌舞伎の竹本との違いをつけるためでしょうかね。

ある太夫さんが、「われわれ文楽の大夫はチョボが付いてません。歌舞伎の竹本の床本は役者の科白の部分に「レ」と、チョボをふってます。これは肝心の科白を竹本が語らないからです。それで竹本のことを別名チョボと言います」と話していたのを聞いたことがあります。
たしかに文楽の太夫は文楽の主役、一方歌舞伎の主役は役者ですから。

うーん、難しいですね。文楽は格式を重んじて、そのプライドがあったから、二派分裂の苦しい時代も乗り切ってこられたと、言えなくもないですから。

♪やたけたの熊さん

いろんな説があるようですね。
山城少掾が発案したのか、誰かに言われてそう決めたのか、今となってはよくわからないのではないでしょうか。

そもそも、歌舞伎の竹本と区別するだけなら、本家の文楽が「大夫」に改めるというのも変といえば変です。
律令制の五位を大夫(たいふ)と言ったところに由来するのでしょうが、それが神事芸能の世界の称号となって、観世太夫、義太夫のように多く「太」の形で用いられてきたようです。
それを元の形に戻して権威付けをしようとしたのだろう、などと言われますが、はたしてどうなのでしょう。
山城少掾は秩父宮家から「少掾」という律令時代の官職にあたる称号を受けているのでそういう気持ちが強かったのでしょうか。

玉幸・一暢の徳兵衛・お初!?

私の観賞歴だと、どうした巡り合わせか玉男・文雀しか記憶にありません。必ずしも毎回は観ていなかったし、ついこの間までは一部と二部を両方観るということもなかったので、別の演目に流れたのだろうとは思いますが。なんだか日本人失格といいますか、常識を身につけそこねた私にぴったりだな。

それにしても、玉幸・一暢の徳兵衛・お初があったなんて! 一度でいいから見ておきたかった(涙)。いや、徳兵衛が誰でもかまわないから、一暢さんのお初を見ておきたかった。文化デジタルライブラリーで調べてみましたら、玉幸・一暢の組み合わせは、観賞教室だったのですね。

せっかく文化デジタルライブラリーを開いたのでついでに調べてみましたら、(少なくとも大阪・東京の本公演では)玉松さんは一度も徳兵衛を持っておられないようでした。さぞかし頼りない、でも可愛い徳兵衛になっただろうになぁ……。

♪えるさん

あれほど玉男師匠で観てきたのに、なぜか私は先代清十郎師匠の徳兵衛が印象に強いのです。しかも清十郎師匠は徳兵衛を一度しか遣っていらっしゃらないらしく、不思議です。
玉幸さんの時は九平次はどなたでしたかね。
勘緑さんの徳兵衛はもちろんイケルと思います。
三枚目ってけっこう二枚目です。

ええっと、

2002年と1988年の、いずれも6月、大阪の観賞教室だったようです。

2002年は、後半日程の午前の部。九平次は今東京本公演で遣っていらっしゃる玉輝さん。

そのほか、前半午前が文吾・紋寿・勘寿、午後が玉女・簑太郎・玉也、後半午後が和生・清之助・文司。

88年の観賞教室は、午前の部だけ中日で交替で、前半が文吾・紋寿・玉女、後半が玉幸・一暢・簑太郎になってますね。

午後の部は、重要な役については交替なし(田舎客や朋輩だけ交替)、全日程通して玉男・文雀・作十郎。

今さらながら、観賞教室っていろんな組み合わせをまとめて見比べられる楽しいチャンスだったのですねぇ……。私、観賞教室って、こないだの6月が初めてだったんですよ。長年、宝の山を逃がしていたのか(笑)。

♪えるさん

わざわざ調べて下さって、というか、調べさせてしまってすみません。人使いの荒いブログです。
たしかに、こうしてみるとおもしろいですね。
本公演でももうちょっとダブルキャストがあってよさそうに思います。

このデータベースは見てて楽しいので自分の楽しみです。

ただ、「私が行かなかった回にこんな面白そうなのがあったのか!」と思ってしまうと身悶えしてしまいますが。

でも、こうしてみますと、ちゃんと考えてあるといいますか、順列組み合わせではなく、互いにうつりそうな組み合わせにしてあるんですね。

ダブルキャストが多かったら、私はどんどん小遣いをしぼりとられてしまいそうです。

♪えるさん

お小遣い、あっという間になくなりそうです。確定申告で経費を必死に探しても追いつきませんね。

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://tohjurou.blog55.fc2.com/tb.php/761-96b16a6b