2018年2月文楽東京公演千秋楽 

2月の公演が終わりました。
豊竹咲太夫師匠、竹本織太夫さん、2か月にわたってお疲れさまでした。
織太夫さんは今後、花形として重要な場をお語りになることを期待しております。
「桂川連理柵」「曽根崎心中」による地方公演のあとは、息つく間も無く、

    五代目吉田玉助

の襲名披露公演です。
私の文楽観劇歴はほとんど新・玉助さんの芸歴に重なりますので、よけいに楽しみです。
桜咲く季節、よき襲名披露になりますように。

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玉造の名 

吉田玉助の名よりも玉造の名の方が格上だったことは否定できないでしょう。初代玉造の子が初代玉助。この人はゆくゆく二代目玉造となるところを早世されたので果たせず、二代目玉助が玉造を襲名しています。いいかえれば、玉造の前名が玉助ということになりそうです。
にもかかわらず、玉造の名は途絶え、玉助はこのたび五代目を数えることになりました。
初代玉造は名人で権威があって長生きもしたのですが、その後、どうもこの玉造の名には

    

がつきまといます。
二代目の玉造は人形遣いとしても、人間としても立派な人だったようですが、襲名した翌年に亡くなりました。
そして三代目を継いだのはもともと初代玉助の弟子だった玉松でした。この人は、三宅周太郎『文楽の研究』によると万延元年の生まれで、中野卯之助という人。父は中座の楽屋番で兄は大道具方。卯之助は大道具を手伝った後、二十一歳で(文楽の世界では「中年」での入門になります)初代玉助の門下になり、玉松を名乗ったのです。文楽座、彦六座、堀江座で活躍し、二代目の玉造が亡くなった後、三代目を継ぎました。ところが厄介なことがありました。文楽では名跡は遺族に属することになるのですが、二代目の玉造の親類から何かといわれたらしく、彼は

    吉田玉蔵

と名前を改めてしまいます。
これで玉造の名は途切れてしまうことになりました。
ときどき思うのですが、遺族の方は当然故人に対して思い入れがありますから、その名前は故人のもの、ひいては自分たち遺族のものと思いがちですが、代々伝わったものであれば、次に手渡すことを考えていただきたいのです。
越路太夫の名は三代目のご子息(竹本さの太夫)が歌舞伎に行かれたために継がれなかったのですが、その奥様が、絶やすわけにはいかないというので、当時の豊竹つばめ太夫に手渡してくれたことで我々の知る四代目ができました。
最近では文昇の名もそうです。先代文昇師匠の奥様が「どなたかに継いでいただきたい」と文雀師匠に相談なさって今の文昇さんに渡されたのですから。大事な名は継がれることでさらに意味が出てくるものだと思います。
さて、玉蔵という人は春風駘蕩。二代目玉造がそうであったように、温和な人で、何を言われても泰然として、意に介することなく落ち着いていたようです。大正十五年に亡くなりましたが、立役、女形のいずれもすぐれていたそうです。戒名「真性院覚山慈照居士」。
三宅周太郎はこの人と二代目玉造を「二大紳士」とまで言っています。
玉造の名が、残念なことに、こうして霞んでいったのに対して、玉助は三代目がさらに大きな名にしたため、今に残ることになったのです。

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二代目吉田玉助のはなし 

三宅周太郎の『文楽の研究』によって初代吉田玉造をご紹介しましたので、二代目玉造である二代目玉助についても書いておきます。
初代に続いて二代の玉助も短命だったのですが、なかなかすぐれた人形遣いだったようです。
本名を佐々木熊次郎といったこの人は、大阪新町北通に生まれ、九歳で初代吉田玉助の門下になります。初名は吉田玉七。『祇園祭礼信仰記』の輝若丸で、松島文楽座でデビューを果たし、その後は文楽座一筋だったそうです。この当時は座を転々とする人が多かったのですが、この人は文楽座で通したそうで三宅周太郎は「脇目もくれずにぢつと文楽にゐて初代玉造父子に仕へた」と書いています。
初代玉助は早世しましたが、亡くなる時にこの玉七に二代目玉助を継ぐように遺言したそうで、その言葉に従って玉七は『妹背山』のお三輪で明治二十二年に玉助となりました。その後、初代玉造が明治三十八年に亡くなる時にも、玉造の名はこの男しか継ぐ者はないと言ったそうで、翌年

    二代目吉田玉造

になるのです。初代玉造父子からいかに信頼されていた弟子であったかがよくわかります。
ところが、好事魔多し。その翌年、風邪からの病によって大阪市北区兎我野町の自宅で、わずか四十二歳で亡くなったのです。文楽座では座葬をおこなったそうです。
三宅周太郎はこの人を

    「英國流の紳士」

と言っており、さらには「温厚篤実」「謙遜家」「沈黙家」「責任感があり」「清廉」「几帳面」と書いています。亡くなる時に道具類を弟子たちに分与したのだそうで、そういうところにもこの人の几帳面さはよく表れており、それゆえに「英國流の紳士」とされるわけです。
この二代目玉造(二代目玉助)が亡くなった時の新聞記事によると、『伊賀越』の十兵衛、『紙治』の治兵衛、『菅原』の菅丞相などが当たり役で、和事の芸に関しては並ぶ者がなかったと言います。
戒名「永壽院善誉居士」。

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初代吉田玉造のはなし(2) 

茶谷半次郎『文楽聞書』に載る三味線の四代目鶴澤叶(のちの二代目鶴澤清八)の話です。
初代吉田玉造の家は大阪島之内の「御池橋東詰を東へ這入つた北側」だったそうです。御池橋は西横堀に架かっていた橋です。
叶は玉造の狐について面白い話を伝えています。『義経千本桜』の道行や四段目の狐、『本朝廿四孝』の狐など、あまりに見事で感心したそうで、あるとき玉造に狐の演技が素晴らしいと、いささか生意気なことを言ったのだそうです。鼻白んだ玉造が「子供が大人なぶりすな」と言うと、「お師匠はんはきつとほんまの狐がそばえてゐるのを見やはつたのんや思ひます」と言ったそうです。「そばえる」は甘えるとか戯れる、といった意味です。すると玉造は逆に感心してある秘話を教えてくれたのです。
玉造は、狐がものに戯れているところを見たいと思って伏見稲荷に願をかけました。そして七年目の暮れの寒い時期に「一の峰のお宮のうしろの裏山」で、

    真っ白な狐

を見たそうです。玉造は思わずその狐を拝んで様子を見ていると、狐は「うしろを見たり、そばえたり、パッと飛んだり」したかと思うとふいと見えなくなったのです。玉造は「神様が見せて下されたのだ」と思ってそれを参考に狐の動きに工夫を重ね、紋も玉の紋に替えたと言います。
叶は、やはり玉造の真骨頂として早替わりや宙乗り(昔の人はわりあいに「宙吊り」といいます。今、そういうと笑われるのですが)を挙げています。「石橋」の獅子、「松島八景」の七変化、「五天竺」の孫悟空などで、孫悟空では客席の上をくるくる回ったそうです。
今では考えられないような玉造の

    いたずら

の話もあります。『浦島太郎倭物語』が出た時、玉造は浦島太郎を遣い、浦島が海に飛び込むということで本水が用意され、人形とともにその中に飛び込むのだそうです。ところがそのあとすぐに下手から人形も玉造自身もまったく濡れていない姿で出てくるのだそうです。
さて、その時の床は文太夫(のちの三代目津太夫)と鶴澤寛治郎でしたが、ある日、玉造は二人を捕まえてその本水に引きずり込もうとしたそうです。寛治郎は逃げおおせて客席の方に逃げたそうですが、あわれ文太夫は引きずり込まれてしまします。そのあと、寛治郎は床に戻って平然としていたそうですが、文太夫は大道具さんに助けられてやっとの思いで水槽を抜け出し、びしょ濡れのまま最後まで語り、お客さんは大喜びだったそうです。
それにしても、玉造の茶目っ気とともに、怒ることもなく床をつとめて、そのあと玉造に「えらい目にあはしやはりましたぜ」と言ったという文太夫もなかなかのものだと思います。玉造はそういわれて「それは気の毒やつたなア」と大笑いしたと言います。
例の「腹帯」の話も書かれているのですが、このできごとについては「「志渡寺」のお辻の水行のくだりであつたといふ異説」があることも紹介しています。これは三宅周太郎の言っていた、「志渡寺」が原因になって「すしや」で腹帯が切れた、という話が混乱して伝わったものかもしれません。
叶はこの玉造について「摂津大掾さんに劣らぬ文楽座の殊勲者のお一人」と賛辞を贈っています。

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初代吉田玉造のはなし(1) 

初代吉田玉助の父は初代吉田玉造でしたが、この人についての話を三宅周太郎『文楽の研究』茶谷半次郎『文楽聞書』から拾っておきます。
古い本ですから、その後、学者の方などが調べられたことで訂正されていることがあるかもしれませんが、とりあえずこの二書の記す所を素直に聞いておきます。
まずは『文楽の研究』による話です。
玉造は人形遣いの吉田徳蔵の子で本名吉倉亀吉。11歳の天保十年に子供の太夫による芝居があり、それに出してもらったのが初めてであったとされます。その時父親が「丸顔だから玉造にしておけ」と芸名をつけてくれたと言います。父が徳蔵なら「玉蔵」でもよさそうですが、字が重すぎたのでしょうかね。
その後四国で興行があった時に『先代萩』の鶴喜代君(『文楽の研究』では「鶴千代君」)を遣うことになったそうですが、千松を遣う人形遣いが、玉造のような新米が相手では気にくわないという態度だったそうで、玉造は昼ご飯をこの人形遣いに提供することでやっと遣わせてもらったそうです。そのため、あまりに空腹で、鶴喜代君以上に大変だったというなかなかよくできた話があるそうです。
玉造は歌舞伎の市川米十郎(のちの四代目小団次)と張り合ったことがあり、それは『傾城反魂香』の一場面で宙乗りを見せるところに関わることだったそうです。玉造が工夫していたことを座(竹田の芝居)から米十郎に「採用したらどうか」と言ったそうです。すると米十郎はそんな人形遣いの言うことは相手にしないと断ったそうです。それを聞いた玉造は、それならとばかりに自分も同じ役をさらに工夫して演じることにして結局評判は玉造に軍配が上がったそうです。
玉造はのちにも宙乗りや早替わりなどに様々な工夫を凝らした人です。
そして、もうひとつはあの有名な話です。
「志渡寺」の「南無金毘羅大権現」のところで長門太夫を弾く三味線の

    豊澤団平

が総稽古の時に気を抜いたそうです。それに怒った玉造が苦情を言ったそうです。
長門太夫のとりなしもあって一応収まったものの、次の公演で『義経千本桜』「すしや」が出たときのことです。
長門太夫・団平が「すしや」を演奏し、玉造は権太。稽古で、団平が「これ忘れてはとひっさげて」のところをどうしようかと玉造に問うと、玉造は「自由に弾いてくれれば自分が合わせる」と、そっけなく言ったそうです。まだ「志渡寺」のもやくやを引きずっていたのですね。団平はそういわれてぶちっと切れました。
さていよいよその場面になりました。団平はこれでもかとばかりに力いっぱい弾いたそうです。長門太夫も負けていられず目いっぱい語る。そのとき、玉造の

    腹帯

が切れた、というのです。

三宅周太郎はこの、欲得のない人形遣いを「天才肌の達人」と言っています。

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