幸助から玉助へ(3) 

今回、幸助さんがご尊父に四代目を追贈したうえでご自身が五代目を継がれることになさったことからは、ご尊父への思いの深さが感じられるでしょう。「前例がなく、世襲制でもない文楽で追贈なんておかしい」「歌舞伎の真似をするな」という意見を聞いたことがあります。前例のないことをするのは難しいですが、私はこうやって思い切ったことをしてくれた幸助さんに

    拍手を送りたい

と思っています。親孝行ということもあるでしょうが、それよりも師匠としての玉幸さんへの敬愛が感じられます。また、そうしないと彼は自分が玉助を継ぐことに逡巡が生じたのではないでしょうか。あれもダメ、これもダメ、おまえなんか百年早い、そういうことを言っているうちに名前はまた宙に浮いてしまうのです。前例がなければ作ればいいだけです。それは伝統を破る事ではないと思います。
玉幸さんというとなんだか渋い顔をして人形を遣っていらっしゃった記憶が強くて、口の悪い人は悪役の人形を遣われると人形も人形遣いも悪役に見えると言っていました。ところが、ファンにはとてもにこやかにお話しになり、以前、ご子息幸助さんのご活躍ぶりを申し上げた時にはいかにも嬉しそうに目を細めて笑っていらっしゃったことを思い出します。
お若いころは足遣いがとてもうまかったそうで、三代玉助、初代玉男らの足や左で修業されたようです。
玉幸さんは肚のある、どこか憂いを感じさせる役が映ったように思います。幸助さんもおっしゃっているのですが、『冥途の飛脚』「封印切」の

    八右衛門

はよかったです。悪役ではない、苦渋に満ちた友人思いの大人の男。「封印切」の名場面を支える重要な役ですが、それをこなせるようになるには半端な修業ではできないだろうと感じさせるものがありました。
五代目文吾さんとともに立役の次代を担うと言われながら、まことに惜しい方だったと思います。

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2018年2月文楽東京公演 

本日(2月10日)、文楽東京公演が始まります。
関西ではもう玉助襲名モード(笑)になっていますが、関東はこれから

    織太夫

の襲名ですね。
演目は以下のとおりです。

第1部(11時開演)
心中宵庚申(上田村、八百屋、道行思ひの短夜)

第2部(2時30分開演)
花競四季寿(万才、鷺娘)
八代目竹本綱太夫五十回忌追善
六代目竹本織太夫襲名
口上
追善、襲名披露狂言
摂州合邦辻

第3部(6時開演)
女殺油地獄(徳庵堤、河内屋内、豊島屋油店、逮夜)

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幸助から玉助へ(2) 


初代の玉助は初代玉造の実子で、玉助は本名だったそうです(姓は吉倉)。三十代前半で若死にされ、二代目玉造を名乗ることはありませんでした。玉造の名は玉助の弟子が継ぎ、四代目までありますが、この四代目は我々の知る吉田玉松さんのご尊父です。
さて、「玉助」の代々なのですが、二代玉造の前名が二代玉助でした。ただ、この人も「玉造」を名乗った翌年、40歳そこそこで若死にされた方です。
三代玉助(1895~1965)は、オールドファンならご記憶でしょう。私も結構オールドになってきましたが、残念ながら存じません。ご本名は小西奈良吉とおっしゃって、三代目玉造(のちに玉蔵)の弟子となって玉小(たまこ)と名乗られました。後に玉幸と改めましたが、このお名前も「たまこ」なのでしょうね。47歳になられる昭和17年に『本朝廿四孝』の

    山本勘助

と『平家女護島』の瀬尾で三代目玉助を襲名されました。肚のある豪快な立役の遣い手だったそうです。今でもよく見る写真は由良助や熊谷を遣っていらっしゃるところなのですが、文七首を中心にさまざまな名演をされたようです。文楽の歴史の中で初めて文楽座(当時は四ツ橋)で天皇が文楽を観たこと、いわゆる

    天覧文楽

がおこなわれたことは、戦争が終わり、平和な時代が来たことの象徴のように言われることが多いのです。そのとき『義経千本桜』「道行初音旅」が出ましたが、玉助師は桐竹紋十郎師の静御前に対して狐忠信を遣われました。新しい文楽の到来を告げるファンファーレ役を務められたのです。
三代玉助の甥だったのが我々もよく知る二代玉幸(1938~2007)さんです。もともとは江島さんとおっしゃったそうですが、三代玉助の養子になって小西姓になられました。今の幸助さんのご尊父です。いずれは四代目をというお考えだったのだそうで、その準備も始められていたと幸助さんが叔父様(玉幸さんのご令弟)からお聞きになったそうです。残念ながら、難病でそれは叶いませんでしたが。

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幸助から玉助へ(1) 

先日、文楽人形遣いの吉田幸助さんから襲名のごあいさつ状、扇子、手ぬぐいをいただきました。そんなに親しくさせてもらっているわけでもない私にまでくださって、恐縮しました。
その中に玉助襲名の記念の小冊子も入っていたのですが、以下、そこに書かれている記事を参考にさせていただきながら書こうと思います。
この冊子の中に吉田簑助師匠が「応援の言葉」という文章を寄せていらっしゃいました。師、のたまわく「名人の名跡は次代に受け継がれてこそ、人々の記憶の中で名人であり続けます」と。

    門閥

のある歌舞伎は襲名がたえず行われており、松竹は襲名で稼ぐと皮肉を言われるくらいです。今年は高麗屋の三代襲名で話題になっていますね。
しかし文楽はさほど頻繁ではありませんでした。私が目の当たりにしたのは(以下、順不同)小玉⇒文吾、文字太夫⇒住太夫、勝平⇒喜左衛門、伊達路太夫⇒伊達太夫、織太夫⇒綱太夫⇒源太夫、簑太郎⇒勘十郎、清之助⇒清十郎、団六⇒寛治、錦弥⇒錦糸、燕二郎⇒燕三、清二郎⇒藤蔵、玉女⇒玉男、英太夫⇒呂太夫、咲甫太夫⇒織太夫、四月の幸助⇒玉助などで、口上のない襲名や改名としては勝司⇒富助、若玉⇒文司、南寿太夫⇒呂勢太夫、団治⇒宗助、勘寿⇒紋豊⇒勘寿、紋若⇒紋臣、昇六⇒紋史⇒紋吉、昇市⇒玉誉、清三郎⇒文昇、簑次⇒簑太郎、龍爾⇒友之助、そして四月の喜一朗⇒勝平などがありますから、多く見えますが、歌舞伎ではこの比ではないでしょう。しかも歌舞伎の場合は江戸時代から続く名跡を大事にしていてそれぞれの家で継承しています。
門閥がないだけに、文楽は襲名といっても、縁もゆかりもない人の名前を継ぐこともなかなかできず、多くの大名跡が宙に浮いている状態です。
太夫さんでは、

     「染太夫」や「春太夫」

など復活してほしいと思っている名跡です。
なかんずく人形遣いというのは、江戸時代にはあまり重要な立場ではなかったこともあるのか、当時の人の名が尊重されることは珍しく、いきおい十代若太夫とか九代綱大夫のように多くの人に継がれてきた名跡は多くないといってよいでしょう。「簑助」や「勘十郎」は三代、「清十郎」は五代、「玉男」はもちろん二代。簑助は文五郎師の本名に由来しますし、玉男はご存じ初代が終生名乗られたものです。由緒ある名というと文三郎などがありますが、もうこれはどなたもお継ぎにならないのでしょうね。
初代吉田玉造は江戸時代の末の名人で、長門太夫、団平の「すしや」で権太を遣っていて、腹帯が切れた話が残っています。三者の気合のすさまじさの逸話として有名です。この人の実子が初代玉助でした。

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襲名すること 

文楽では去年から襲名の吉事が続いています。
三代英太夫さんが六代呂太夫に、咲甫太夫さんが六代織太夫に、そして四月には幸助さんが五代玉助に。
私など無責任ですから、もっともっと襲名すればいいのに、と思ってしまうのですが、実際にそうなるとご本人は大変だそうです。へあいさつ回りだの配りものだので

    へとへとになる

とおっしゃっていた噺家さんもいらっしゃいました。
奥様も大変だそうで、一連の行事が終わったら体調を崩される方もいらっしゃるとか。
先日、四月に玉助を襲名される吉田幸助さんからごあいさつ状や手ぬぐい、扇子などをいただきました。
私などにまで下さるということは、それほど多くの方になさっているのだろうと本当に心配になってきます。
以前、

    だしまきの夕べ

に幸助さんが来られた時に、「お金もかかります」とおっしゃっていましたが、そりゃそうでしょうね。
私もポンと10万円くらいお祝いをしたいところですが、とてもそんなお金はありません。
でも、わずかながらでもお祝いは差し上げたいと思っています。

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